昭和51年11月06日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」

 信心が楽な方へ楽な方へと、楽な信心になっていくところに、お徳が受けられなくなってしまう。なら信心を難しい方へ難しい方へというと、まぁ信心がきついものになって来ますけれども、信心が有り難い方へ有り難い方へと、有り難うならせて頂く一つの手応えと言った様なものを、自分の心の中に頂きつつ進めていくのが、真の信心だと思う。昨日研修の時にもそれをお話し、昨日は壮年部会でもございましたから、壮年部会にも聞いて頂いたんですけれども。
 教祖様のお言葉に、初めの頃はすぐに皆んなが神様にお知らせを頂く。手みくじぐらいはすぐに頂いておったけれども、この頃はそういうおかげを頂く者が、段々少なくなって来たと。教祖様のご時代ですらやっぱそういう、段々時間が経つに従って、そう言う事になってきた。御神格を頂かれるという方達が次々と出ておられます。それが明治、大正、そして昭和と言う風に年を経て来るに従って、段々そういう生き生きとしたものが教団の上にも薄くなってきた。
 それは合理的な信心。しかも高尚に指導して来た。金光教の信心は品がいいと言われてます、いわゆる臭味がないという。宗教臭さがない。言うならばすんなりとしてスマートだと言う訳です。なるほどそう言う風に指導して来た。いわゆるまぁ高尚で合理的な生き方。言うならば見栄ばかりを教えて来た様な感じになって来た所に、本当の生きた働きから離れて来たと。例えば昨日の御理解を頂きましてもそうでございますね。
 88節ただ普通の人が言う様な事を、信心の教えにそのまま当てはめて言うなら教導してきた。悪い顔をしてはならない。鏡を見て辛い悲しいと言う様な時に、鏡を立ててさぁ辛い悲しい顔を人に見せてはならない。と言う様な教え方をして来た。信心をさせて頂く者は、例えば鏡を見た。そこに悲しい顔があったり、人に不愉快な思いをさせるような顔がそこにあった。そして例えば自分が腹立たしい思いをする時に、あぁ本当に腹どん立てるだんじゃない。
 もうこれはむしろ神様に、お礼を申し上げなけばならない事であったと、気付かしてもろうて。自分の心から改めていくところに、自ずと顔には本当の意味での、笑顔が出てくるのです。言うならそう言う教え方をしなくなって来た。結局は自分自身の心を見極める事を、本当に教えて来なかった。そこに段々おかげが受けられなくなったと。お徳を受ける人がなくなって来たと。
 昨日これも研修の時に、昨日の御理解の中にも、おかげを受けるという人達。まぁとりわけまだ信心も分かっておらんなりに、あのうおかげを受けると言うのは、何とはなしに神様の心に直結するような、ものを持っておる人達だと、と言うて宮崎の甲斐さんなら純真だと。純情だと。それがあのうおかげを頂けれる、神様との交流の元になっておる。純真じゃなかならければならない。豊後森の坂井さんの場合なんかは、非常に人間が無邪気である。邪気がない。そこにあのうおかげを頂く事がある。
 もう3ヶ月しかもてないと言う直腸癌が、沢山の買わして頂いておる薬も、医者も断ち薬も捨てて、ただ一心に縋ればおかげになると言われたその、一心にすがると言う事を、もう医者にも縋らん。薬にも頼らんとその一心を立てたところに、3ヶ月しかもてんというのが反対におかげを頂いて、しかも長年の持病であった病気までも、良くなると言う様なおかげを受けたと言う事実を元にして、一心を立てるとか純真とか邪気がないとかね。そこにまぁ人の目を見張るようなおかげが頂ける。
 してみると信心は対して詳しくならんでも、そう言う様な事を私思わせて頂いておりましたら。信心のそのうおかげの受けられる受けられないというのは、陰性の人陽性の人があると言う事を頂いた。陽の人は外にすぐ現れる陽性の人。言うならその昨日3人の例をとった、これは皆んな陽性の人達なんです。一心どれでもこれでも一心になれると言う訳じゃないけれども、なんかちょっとヒントを与えてやると、あぁっともう一途に一心になれれるタイプの人がある。生まれつき言うならば本当に邪気のない人がある。
 生まれつき純真の人がある。そういう人が一度神様っとこう、そうすると何かがちょっと交流するだけで、もうそのシャープなおかげになってくるという。昨日も丁度上野先生が奉仕をしとる時にその、坂井さん達が夫婦でお参りを。もうおかげを受けたらもう遠いとか近いじゃないですね。この頃から毎日二人でお礼参拝があっとりましたが、昨日もお参りして、まぁ文男先生にもうそれからこれまで、先日からあのう森地区の共励会からこの方のおかげを、まぁお届けしてお礼申し上げます。
 とにかくやっぱりおかげを受けて、その受けた姿を人にあのう見せる訳じゃないけれども、そういうものがやはり自然とあの示現活動になると言う事は、とにかく私がそれこそ命拾いとしたという、そのもう自分ではそうでもない。その大きな材木やさんですから材木が倒れよるからこっちから言いよるもんが、材木が倒れよるからと言うけれど、本人があの後ろの方からだから何を言いよるじゃろうか位なこつ。けどもこちらから言いよる者はその早よ逃げんかって言うて、まぁいうもその瞬間の出来事でしょうけれども。
 言っておる間にそれを言うておった若い青年、あのもういよいよ上に落ちるという時、そこからクルーッと回って落ちたと言うんです。それをその青年の方が目撃しとった訳です。危ない危ないと。だから金光様っちゃどう言う事を教える神様かというてその、それからそのう共励会にも出て来る様になった。これはどげん考えてもそげな筈はないですね。それがその危ないって言う時にその、倒れてきよった木がねこう回ったっちゅう。そしてそのすぐ脇に倒れた。と言う様なね。
 昨日もあの山を売り買いされたり、材木を長でありますから製材やらもなさっておられるわけです。ところがその、ばいたがもう三百束から貯まってもう置き場がない。なんてそれで困るねってその夫婦でいう、神様にお願いさせて頂かにゃあんた出来んじゃないですかっちゅうて、その言ったらその買いに来たっち。そしてその三百束の何人も、昨日やっぱり来てから、そこが開く様に昨日1日で売れてしもうたというので、早うにお礼に参りとこの程まで且てなかった。
 ほんな朝もうこれはどん込ん出来んで、三百束もここに積み上げたら、こりゃ後に何も置かれないじゃないかと言うておる。やっぱ神様にお願いせなと言うて、その別にお願いした訳でもないけれども、お願いせにゃという心を向けただけで、その三百束のが相手がこちらからその買いに来てもろうて、昨日1日にで片付いてしもうたから、お礼参拝に来たと言うのだそうです。それよりまた結局そのまぁ言うなら、あの邪気のない信心とでも言おうか。だからもう昨日上野先生に話されよるのに。
 もうご飯食べる時家族中の者が、金光様のお話で持ちきりですと言うのです。子供達までそうです。先日からあのう高校生の娘さんが、月次祭の時に私は今日は勉強が忙しいから、お参りせんて二階から言うたら言うたとたんに、二階から下に落ちて来た。もうちょいとこの神様は怖いと言うて娘がよう言いますとですね。それからついてならここへ来る神様、さっと抜けると又それとは反対のおかげが出来る。もう試験の上なんかにも、はっきりそのおかげを頂くそうですね。
 先日からもう、あのう今日はあのうお月次祭だけども、忙しくて参られんぞと言うて、参ろうと言ったら、今日は参られんぞと言いよったから、表にトラックに積み上げた材木が崩れてきてから玄関を潰した。はぁ朝参りはでけんって言うてと言う訳なんですね、もう良しにつけ悪しにつけそういうその、はっきり形にすぐ現れる。神様。そういうだから信心のありかたを陽性なんと言うのでしょうね。
 陰性というのはなら今日のこの68節にですね、神参りをするのに雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならん。その辛抱こそ例えば、本当に今が人生の雨であろうか、風であろうかと言う様な所を通っておる人達。右と願っても左となる。左と願っても右となると言った様な中に、それも辛抱し抜く事がおかげになるのだ。昨日も浮羽郡の伊藤、伊藤さんっていう方がお参りをして来た。
 娘さんが病気で長く寝ておられて、親子で一生懸命お参りをなさった、けれどもそれは大変なおかげをおかげの中に、亡くなられましたけども亡くなられて。ほいで息子さんのまたあとの嫁さんを、まぁ貰わんならんとの事で。また一生懸命参ってきよるごとなったが、それが出来る事して出来なか。お孫さんが今度あっちに色々就職の試験を受けられるために、孫さんも一生懸命参ってきよったけれども出来そうで出来なかった。
 それでその息子やら孫達が、もう親先生に顔が合わせられんと言うて、もうお参りをしませんから、あの私が今日参って来たと言うて昨日参って来た。そしたら御神米に信心辛抱というお書き下げを頂いた。もういよいよその陰性の方達ですよね。けれどもそういうタイプの人達がです、ひとたびなら自分の欠けておる、陽が欠けておるから、陽の信心が出来るようになった時に、陰陽の道理に基ずく、言うならばおかげが生みなされて来る。これが本当のおかげたと言うのです。
 それがなら例えば願うても右に、右と願って左となる事ばっかり続いておるけれども、やはり信心だけはなさっておられる。さぁここが辛抱のしどころだと。その辛抱こそ身に徳を受ける修行。どういう徳が受けるかと言うと、陰性の人が陽性のものを兼ね備えるような、おかげになって来ると言うのです。そこに陰陽の道理から生まれてくる信心。言うならお徳。言うならばおかげと言う事になるのです。
 昨日宮崎の佐田さん、稲垣さんのご兄弟です。電気商をなさっておられる。この頃から大変おかげを頂いておられたんですけれども。先月の支払いが出来ん。今月になっても商売が不振で、主人が何の為に商売しよるか分からん。と言った様な毎日まぁ大体が宮崎教会のご信者さんですから、宮崎教会にお参りをなさっておられるそうですけれども、おかげを受けられん。
 なら合楽の先生にお願いしようと言うて昨日電話が掛かって来た。そういう電話を受けて、そのお届けを聞きよるうちに神様から私頂く事が、木編に古いという字を頂く。ならどういう事、枯れるという字。木編に古い心が枯れておる。いかに朝参りをしよってもマンネリになった信心であったりでは、もう神様のおかげをキャッチする事にならない。日に日に新らな信心。夕べの夕べも又先日4日の神愛会にも、先生方にも昨日壮年部会の人達にも聞いて頂いたんですけれども。
 この頃から2・3日家内の事がこの話題に上った。今から考えても不思議だと。あの修行の厳しかった時代に、本当に家内が私の足を引っ張るような事を言っても、言うた事も態度に出した事もなかった。ただ言わば黙々と付いて来た。その今から考えて大変不思議に思う。私があの下駄を拾うて歩きよった時分に、言うならば下駄をこう縄にくくって下げて帰って来た時に、おまえどげなふうにそげな時に思いよったかと言った様な事を、あの何十年ぶりで質問させて頂くほどに、迂闊であった。
 何十年前本当に、例えば足を引っ張ると言う様な事が全然なかった。どころではないどういう無理、難題な事でも家内には言えよった。たまたま金を三千円か四千円か入ってきたから家内に渡した。丁度月次祭の日であった。だからその金を半分お供えを買いに行くからと言うて、お供えを買いに行った。そしてその時にね、あのお魚やら貝あの私は忘れもしませんけれども、カニがこう出とった。それで安い方を買おうとしたら、それは死んどるから生きとる方を買えと、神様がおっしゃる値段が倍するんです。
 青の魚も鯖やらより鰹を買えと。あの時分二千円せんで買えた訳です。それから鯛もやはりこのぐらいな小さい三宝に乗るくらいの鯛を買った。そしたら二千円しまえた。お神酒を買わなならん。お神酒もやっぱりもう1合でもよいから、特級酒を買う。それでまた家に帰ってから、今渡したばっかりの金をもいっちょあれをくれと、もう普通ならもう気がねして言い切らない所じゃないでしょうかね。言えない所じゃないでしょうか。いや言うたらもうそれこそムッとした顔をするとじゃないでしょうか。
 それが言えたと言う事を何十年ぶりに私が、ほんにあの時分にそれこそ嫌な顔ひとつせずにあの、ほんなちょいと握ったばっかりでしたね、とも言わなかったように思うです。それを淡々として、私に渡してくれておった時の事やらがね。それがあのういわゆる家内が素晴らしいと言う事だけじゃなくて、段々考えよったら私が素晴らしかったからだと思うようになったんです。これは本当に言うならば、私に無条件で付いて来たと言う事は、あたしに無条件にさせる何物かがあったと言う事だと言う事です。
 それでその先生方にその、神愛会の時にも申しましたように、自分の信心の対象というものをね、自分の家内やら、自分の子供に向けなさい。他の事じゃない。信者じゃない。肝心要の家内がお話を頂き切らない。言わば形の上では大事にしとるとやろうけども、あの尊敬もしなければ尊びもしない。されないならどうして、私を尊ばないかと言うのじゃなくて、そこに自分自身の信心の値打ちのなさっていうものを、本当に極めて行く以外にないんです。
 お前は主人を何と思うとるかっと言った様なものも、くちあげもなかったが、家内もそういう例えば、足を引っ張るとか軽く見て来た様な所が全然なかった様に思う。私が強引に引っ張っていったわけじゃなくて、それにやっぱり従わせたついて行かずにはおられなかった、何物が私の内容の中にあったんだという、まぁ結論になった訳です。家内が足を引っ張る。引っ張られならんぐらいな自分だと言う事を、自覚する方が早い訳です。いわゆる身に徳を受ける修行と言われる。
 そこのところの辛抱が出来てない。そして楽な方へ楽な方へと、信心をもって行く様になった。信心が有り難うなり楽しゅうなるような、信心を教えてこなかったしていない。指導していない。またそういう信心を頂こうと意欲してない。そこで陽性の人言わば簡単におかげを頂く人、昨日今朝も久富繁雄さんが発表しておられましたが、宮崎やら大分当りの方達がそうした、鮮やかなおかげを受けられる。そういう人達が例えば今は、春なら春に花が咲いておるようなものだが、必ず夏に向かう時が来るだろうと。
 その夏に向こうた時にそこ夏の暑さと言うか、夏にでも咲かせる花と言う様なおかげを、頂かれた時が本当な事だろうと。言うなら四季折々に花が咲く。いつでも寒かっても暑かっても心に喜びが絶えないという、信心が身につけられた時が本当だろう。まぁ宮崎当りの方達の場合なんかは、春か秋か時候のよいような状態の心の形であろう。だからそういう人達が暑いとか寒いとかに直面した時にが、まぁ問題だと言う様な意味の話をなさっておられます。
 だからそこを通り抜けさせてもらうという時が、信心辛抱なんである。その辛抱こそ言うならば徳を受ける時であるというのです。だから陽性の人が陰性の欠けておる自分の欠けておるものに気がつかせてもろうて。例えば私の信心が桜の花のような信心だと。そこで梅の花のような信心が欠けておるおる時が、気づかせて頂いてね、それこそ泣く泣く辛抱しいしい、辛抱の梅の花の信心を身に着けて行ったところに、桜の花のような華やかなおかげと、信心辛抱によって力を受けて来たと言う事が言えるのです。
 だから陽性の人が陰の内容を頂き、陰の人が陽の内容を頂いて行く、その時が私は信心辛抱だと思うです。その辛抱の時そこん時に、その時におかげを受けるんだ。陰が陽に変わるんじゃない。陰の人が陽を兼ね備えていく時が辛抱だと。その辛抱こそ神徳を受ける修行だと言う事です。だからこの陰陽兼ね備えたおかげを頂く。ところがです例えば願うても願うても、自分の思うようにならない時辛抱しきれない、と言う様なものを、宮崎の佐田さんじゃないけれども。
 何の為に仕事をしとるか、何の為に信心しとるか分からんように思うと言う様な時は、自分の心が枯れておる時である。心が古くなっておる時である。そこで私は電話を受けて聞き終わってから、その話をさしてもろうて、なにかちょっとした修行でも思い出して御覧なさい。枯れかかった例えば花が、根元を叩いたり焼いたりして、また水につけると、また水を吸い上げるような働きが必ず生まれてくるよ。心が枯れておるからおかげも枯れておる。このままで行きよったら枯れ切ってしまう。
 枯れたんじゃもう遅か。そこであのちょっとちょっとした修行を、思い立たせて頂きなさい。大払い信行も苦しいやろうけれども、その大払い信行をもう一つ工夫して大払い信行を上げてごらんなさいと言うて申しました事です。私共が陰陽兼ね揃うた言うならば、男性的なというかね、女性的っていうか。母性的っていうか父性愛というか、そういうその両方が兼ね備えていくと言う時に、信心辛抱がいるのです。またその辛抱の時に徳を受けるのだと言う事であります。
 だからどちらがどうと言う事はない。むしろ陰性の願ってもおかげにならない人が辛抱し抜くと言う事の方が、本当は辛抱がしよいのである。陽性の人は、おかげを受けておって、今度はその夏か冬かって言った様な事に直面した時に、挫折するその傾向が強い訳です。そういう時の例えば教導が難しい。おかげをどんどん渡す事よりも、おかげを神様が渡しなさらん。そこを辛抱させるのは、さぁ頑張んなさい頑張んなさいでいいけれども、おかげをどんどん渡しとって、今度はおかげを渡せない時期が来た時がです。
 あげんしておかげを頂きよったごたばってん、あれはもう腑が良かったっちゃろうぐらいになって信心を挫折するような人達もあるから、むしろそういう人達の方が教導が難しい。と言うような事をまぁ話した事です。その辛抱こそと言うところを今日は、陰から陽へ移っていく、陽から陰へ移っていく時、いよいよ徳が受けられる。その時が辛抱のしどころであり、信心辛抱だという事を聞いて頂きましたね。
   どうぞ。